takeの感想文マガジン

映画・ドラマ・アニメ・読書・の感想・レビューを綴るブログです

もののけ姫

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公開 1997年

監督 宮崎駿

 

あらすじ

中世・室町期の日本。いまだ人を寄せ付けぬ太古の深い森の中には、人語を解する巨大な山犬や猪などの神獣たちが潜み、聖域を侵す人間たちを襲って、荒ぶる神々として恐れられていた。エミシの末裔のアシタカは、人間への怒りと憎しみによってタタリ神と化した猪神に呪いをかけられ、それを解くために訪れた西の国で、数奇な運命に巻き込まれていく。森を切り開こうとするタタラ製鉄集団とその長エボシ御前、森を守る山犬一族、そして山犬に育てられた人間の少女サン。アシタカはその狭間で、自分が呪われた理由を知り……。(アマゾン商品紹介より)

 

これはすごい作品です。

僕の中では、今まで観たジブリ作品で3位となんとなく言ってきましたが

今回見直してみても、その印象は色あせることなく、いや、もっと上位に食い込むかもしれないと思うほどです。

単純にエンターテーメントとして観ても無駄なシーンがなく、ノンストップで引き込まれます。テーマ性も申し分なく、力強く響くものがあります。

冒頭からアシタカが容赦なく侍の首を矢で吹っ飛ばすという描写・・・。

アニメーションは子供に伝えるもの、というこだわりを持つ駿さんの中では、

一番の大人向けの作品とも言えます。

太古の森にやってくるアシタカ。

神々しい色彩を放つ木々や豊富な植物。妖精たち。神獣・・。

いやがおうにも自然への敬愛が伝わってきます。

その森を抜けると、黒煙を上げるたたら製鉄所が見えてくる・・・。

はいはい、また自然破壊する人間の風刺を描くのね…と思うのですが

アシタカがそこに足を踏み入れると、そこには気のいい普通の人々が暮らしています。

特に製鉄所で「たたらを踏む」女たちの生き生きとした描写。

そしてそれらの人々を束ねる女長、エボシ御前の求心力。

何やらハンセン病を想起させる人たちの面倒を見ているとか・・・。

ただ自然破壊する人間を単純に悪とも描いていないのです。

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そんなたたら製鉄所を自然界を脅かす存在として敵視し

再三にわたり山犬に乗って襲撃してくる少女サン。

アシタカは「曇りなき眼でものごとを見定め、決める」と言い放ち

どちらの側にもつかず

人間と自然の共存の道を探し奔走します。

ここが素晴らしいです。

 

自然への敬愛。

その中で生きる人間の業。

そんな人間にたいしてのある程度の許容。

森羅万象のバランス。

生と死の表裏。

そんなことが圧倒的な躍動感の中に描かれて

理屈なく心に響きます。

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崖の上のポニョ

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公開 2008年

監督 宮崎駿

 

これはもうポニョかわいい~

いやされた~

以上。で基本的にはイイと思いますが。

 

そこは宮崎駿さん作品。

これもなかなかそう一筋縄ではないですよ。

裏読み、深読み、いろいろできますが

ネット上ではある都市伝説の話題でもちきりです。

興味ある方はググってみてください。いろいろ出てきます。

細かく紹介してたら長くなるので、さわりだけ。

津波水没以降、後半は死後の世界を描いている。

ポニョの本名「ブリュンヒルデ」は北欧神話では死者の魂を天界へと導く存在。

ポニョは死者の魂を迎えに来た死神だった!

宮崎駿監督がついにこの世を見限った作品である・・・なんて。

 

 

あらすじ

海辺の小さな町。崖の上の一軒家に住む5歳の少年・宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子・ポニョと出会う。アタマをジャムの瓶に突っ込んで困っていたところを、宗介に助けてもらったのだ。
宗介のことを好きになるポニョ。宗介もポニョを好きになる。「ぼくが守ってあげるからね」
しかし、かつて人間を辞め、海の住人となった父・フジモトによって、ポニョは海の中へと連れ戻されてしまう。人間になりたい!ポニョは、妹たちの力を借りて父の魔法を盗み出し、再び宗介のいる人間の世界を目指す。危険な力を持つ生命の水がまき散らされた。海はふくれあがり、嵐が巻き起こり、妹たちは巨大な 水魚に変身して、宗介のいる崖へ、大津波となって押し寄せる。海の世界の混乱は、宗介たちが暮らす町をまるごと飲み込み、海の中へと沈めてしまう―。
少年と少女、愛と責任、海と生命。神経症と不安の時代に、宮崎駿がためらわずに描く、母と子の物語。(アマゾン商品より)

 

僕の解釈は───

都市伝説は都市伝説です。

 

冒頭、ポニョが家出して人間の港にやってくるとそこはゴミだらけの海です。

ヘドロとゴミの中を泳ぎ、ジャムの空き瓶にポコッとはまってしまう。

子供なら爆笑のシーンです。宮崎さんもそれでいいと思って書いているのでしょう。

しかし大人は笑えません。笑っても苦笑いです。

かわいいいアニメに乗せて、のっけから辛辣な社会風刺です。

ポニョは父フジモトによって海に連れ戻されるのですが。

このフジモト。例によって元人間だったけど、人間に絶望して人間を辞め魔法使いになり、何やら怪しげな薬を精製して人間界の転覆を狙っているという設定。

ここまでは

風の谷のナウシカ」以来一貫して人間のエゴと自然破壊にたいしての風刺と警鐘を描いている、ザ・宮崎駿ブシです。

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もう一つネット上で物議をかもしだしているのが

5歳の宗助が母親の事をリサ。父親をコウイチと呼び捨てにしているのはなぜか?

という問題です。

これは現代核家族化への風刺ではないでしょうか。

父は船乗りで、ほとんど家に帰ってこない。母リサも、老人介護の仕事で忙しそう。

家族でありながら、家族でいることよりも個々の生き方を尊重する。

リサとコウイチの夫婦観。家族観。は現代日本の一般家庭の平均モデルといっていいのではないでしょうか。

そんな家の子だからこそ宗助は母をリサ。父をコウイチ。と呼ぶ。

親というより一人の人間として。

ポニョが人間の女の子として二度目に宗助のもとにやってきたとき

リサがうちに迎え入れてごちそうに出したのがチキンラーメンというところも

苦笑せずにはいられません・・・。

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その夜、リサは老人ホームの人たちが心配と宗助とポニョを家に残し出ていき、

翌朝、宗助が起きると床下浸水です。

(崖の上の宗助の家が床下浸水だという事はその下の家はほとんど水没ということ)

宗助は大変だと思い、リサの安否を確認するためおもちゃのボートをポニョの魔法で大きくして、老人ホームに向かいます。

ここからが問題の都市伝説の部分です。

ここですでに宗助は死んでいる。その後に出会う人たちもすべて・・

この後のシーンはすべて死後の世界という解釈です。

途中ボートで避難する町の人たちと出会うのですが、町が津波に飲み込まれているという割にはみんな呑気で悲壮感なく、日傘さしてピクニック気分の夫婦がいたり・・・。

暗いトンネルを越えるシーンなど・・なるほど信憑性もかなりあります。

確かに近年の駿さんは、明らかに死を意識している感じはします。

年齢的にも体調的にも切実に感じるものがあるのでしょう。

それが作品に表れている感じはします。

大人たちがそういう深読みすることをあえて狙って仕掛けているという気もします。

ただ・・

吾郎さんの「ゲド戦記」の試写会が行われているときに、駿さんはこれを作っていたのですが。

吾郎さんの「ゲド戦記」がほとんど子供を無視している作風なのに対して

当てつけのようにポニョの絵をかきながらブツブツ

「子供がわかればいい・・・子どもがわからなければ意味がないんだよ・・」

と言っているところ、ドキュメンタリー番組で観てましたから。

駿さんの作品は子供目線でそのまま素直に受け取ればいいのだと思います。

 

そして最後は・・

ポニョが人間になれてめでたしめでたし。

 

駿さんもいろんな風刺や警鐘を描いてきましたけど

まだまだ人間捨てたもんじゃないよ・・と。

若い君たちがこれからどう生きるかによってはね・・

と、締めくくっているのではないでしょうか。

紅の豚

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公開 1992年

監督 宮崎駿

 

あらすじ 

第1次大戦後のイタリア、アドレア海。暴れまわる空賊相手に賞金稼ぎをしているポルコ・ロッソは、豚の姿になった飛行機乗りだった。ある時、目障りなポルコを倒すため空賊たちがアメリカ人の凄腕パイロット、ドナルド・カーチスを雇い、ポルコは機体の不具合もあって不本意にもカーチスに撃ち落とされてしまう。幼なじみのジーナの心配をよそに、機体の修理のためミラノにいる昔馴染みの飛行機製造工のピッコロを訪ねたポルコは、そこでピッコロの孫娘フィオに出会う・・。

本作の主題歌を歌う加藤登紀子が、ヒロイン・ジーナ役の声優も務めた。

(映画COMより)

 

この映画はもう、あの有名な名セリフ

「飛ばねぇ豚は、ただの豚だ」

に集約されます。

一見無駄などうでもいいことにこだわって、

熱く懸命に生きる主人公ポルコ。空賊といいながら、宮崎アニメではお約束と言っていい、気のいい連中たち。影と憂いをたたえながらも、少女のような純真さをもつ大人の女ジーナ。若いながらも気高く聡明なフィオ。

登場人物たちがみんなキラキラ、すがすがしく、躍動してるんですね。

観てるこっちも、細かいこと気にしてるのがバカバカしくなってきます。

作品内容じゃなくて自分の普段の生活の事とかに思いをはせたりして。

作品内容についても初めは、

なんで豚なのか?とかジーナとはどんな過去があったのか?とか考えてたのに、

そんな事どうでもいいと思えてきますけど。

ただ、以前観たときは気にならなかったんですけど、

今回は、キザなセリフ回しがどうも引っかかりました。

あの時代、角川映画全盛のころ、こういうハードボイルドな感じ流行ってましたね。

僕個人的にも一時期ハマった、北方謙三片岡義男とかの世界を思い出します。

「やせ我慢の美学」とか「不毛の美学」とか「刹那の美学」とかが「粋」だという・・・。

若い頃は、そういうのカッコイイ大人の世界と思って憧れたりしたんですけど。

今見ると、イキがってる感じが逆に子供っぽく感じちゃうんですよね。

まあ、無意味とわかってることに、あえてバカみたいに突き進む、みたいな生き方、今も嫌いじゃありませんが・・・。

 

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今回、見直しで一番心に残ったのは

数々あるポルコの名ゼリフよりもフィオのセリフです

飛行艇の修理の設計責任者がフィオだと聞いてポルコは他を当たると言い帰ろうとします)

「私が女だから不安なの?それとも若すぎるから?」

「両方だよ、お嬢さん」

「そうね、当然だわ。う~ん、ねえ、いいパイロットの第一条件って何?経験?」

「いや、インスピレーションだな」

「よかった、経験って言われなくて」

 

「両方だよお嬢さん」と小バカにされた後、普通なら「なによ~」と食って掛かるところ、「そうね、当然だわ」と一度受け止めてからの

「ねえ、いいパイロットの第一条件って何?経験?」

くぅぅぅ~シビレる切り返し!

そのあとのポルコの「インスピレーションだな」もいいですけどね。

 

男とか女とか、大人とか子供とか、関係ないね。何事もインスピレーションとセンスですよ。うんうん。と、妙に共感しちゃいました。

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ゲド戦記

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ゲド戦記

 

公開 2006年

監督 宮崎吾郎

 

あらすじ

西海域の果てに棲む竜が、突如、人間の世界に現れた。そして、それと呼応するかのように、各地で作物が枯れ、家畜が倒れていく。世界の均衡が崩れつつあった。災いの源を探るゲド(ハイタカ)は、旅の途中、国を捨てた王子アレンに出会う。心に闇を持つ少年は、得体の知れない“影”に追われていた。二人は、都城ホート・タウンにたどり着く。そこでは、人身売買が行われ、麻薬が蔓延し、売っている物はまがい物ばかり。表面的には陽気で騒々しかったが、行き交う顔からは実在感が失われていた。街をさまようアレンは、謎の少女テルーを人狩りの手から救い出すが、彼女は少年を拒絶する。
――世界に兆す災いの背後には、クモと呼ばれる男がいた。“死ぬこと”を誰よりも怖れるその男は、かつてゲドと戦い、そして敗れた大魔法使いだった。

(アマゾン商品紹介より)

 

 

公開当時観たときはパッとしない印象でしたが

今回、細かいこと気にしないで素直に観たら意外とよかったですよ~。

前回は、意味不明なことが多く、雰囲気映画だな。

と一蹴して終わってた気がしますけど、

今回は意味いろいろわかったかもです。

ていうかテーマ、モロ、セリフで喋っちゃってるし。

そこ、最大のディスリポイントにもなるけど・・・

それも素直に受け入れれば、言ってることは悪くないし

ストレートでいいですよ。変にクールぶってるより。

 

‼‼以下は超主観的(ネタバレあり)解釈です‼‼。

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まず冒頭、アレンが父親である国王を殺して逃走するところから始まるのですが。この父親殺しはなぜか?

そもそも子供も観るアニメとして主人公がいきなり親殺しとは、そこから入り込めない・・と、ネット上でも相当物議をかもしているようですが。

深く考えないでスルーしましょう。

のちのち、ああそういう事かとわかります。

逃走したアレンが狼に囲まれて、急に顔つきが変わり撃退するシーン。

テルーを助けようとしたとき、急に強くなって人狩りを撃退したシーン。

この辺りで、おやおや、そうかとわかります。前回観たときは分かりませんでした。多分最初の親殺しの段階で引っかかって眼鏡曇ってたんでしょう。

アレンは二重人格です。殺したときはダークサイドの人格に取りつかれていたということです。

王子としてのプレッシャー、閉塞感、自分の心の弱さが闇の人格に付け込まれてしまったという事でしょう。

吾郎さん自身の、駿さんに対しての呪縛を断ち切るという意味も、どうしても感じてしまいます。勝手な勘ぐりですけど。

 

この作品、心の陰と陽、生と死。このあたりがテーマかな~となんとなく思いながら見進めていくと

ハイタカがセリフで言っちゃいます

「アレン。死を拒絶することは、生を拒絶することでもあるんだぞ」

おいおい、とも思いますが、菅原文太に(ハイタカの声)言われたら素直に聞くしかないですよ。

 

そしてラスト。

テルーは竜だった。

あのポスターのシーンです。

竜になったらもう人間の姿に戻れず、テルーは竜の世界に戻っていく。

あれは、アレンと竜になったテルーのせつない別れのシーン?

かと、思いきや

急に人間の姿のテルーに戻って、ハイタカ、テナーと合流して元通りの生活に。

で、めでたしめでたし、おしまい。

とはなんだ????思わず目がてん・・・。

だったのが前回観てパッとしない印象が残った最大の要因でしょう。

今回はそこも気になりませんでした。

人に戻ったからと言っておかしいとはいえないですから。

そんなこと言えばもともと人が竜になったりすること自体がおかしいし。

 

これもハイタカのセリフで言っちゃってるんですが

「森羅万象は均衡によって成り立っている」

ジブリ作品全体的に流れる、人のエゴへの戒めと自然への畏敬の念はこの作品にも脈々と受け継がれていると感じました。

ジブリ作品を見ると

自然を敬い、驕らず、質素に生きようと思えてくるんです。

そこが好きです。

元通りの普通の生活に戻ってめでたしめでたし、というラスト。

普通が一番

それを描きたかったのではないでしょうか。

 

ただ、国王を殺してなんのお咎めも無し?は腑に落ちませんが。

まあそれはのちの話ということで・・腑に落としましょう。

 

冒頭、父殺しのシーンで駿さんに反発した吾郎さん。

ラストでは結局、駿さんの意志を受け継いで敬意を示したようにも感じられます。

 

吾郎さんは、作品を私物化してるとか

駿さん曰く、子供っぽいとか(作品内容ではなく制作姿勢がという意味)

言われているようですが。

そんな吾郎さんの泥臭さが、逆になんか心にしみるんですよ。

最近、僕の中で吾郎さん作品、赤丸急上昇です。

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コクリコ坂から

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コクリコ坂から

 

公開 2011年

監督 宮崎吾郎

 

<作品解説>
太平洋戦争が終わって18年、日本は焼け跡から奇跡の復活を遂げた。
そして、高度経済成長が始まろうとしていた時代に、復活の象徴として、日本は東京オリンピックの開幕を目前に控えていた。
人々は古いものはすべて壊し、新しいものだけが素晴らしいと信じていた。
煙突から吐き出される煤煙。道路をひしめく車の土埃。
人々でごった返す街。工事や建物の解体作業の騒音。
しかし、それでも海は青く、緑は輝き、空は広く、世界は希望に満ちてキラキラと輝いていた。
そんな時代に、横浜にあったある高校で、明治に建てられた由緒ある建物をめぐって小さな紛争が起きていた。古いけれど、歴史と思い出のつまった建物。
それを取り壊すべきか、保存すべきか。
ある高校生の男女が、そんな事件の中で出会い、心を通わせ、助け合って行く。
ふたりが見出した日本の“明るい未来”とは、何だったのか。
16歳の海と17歳の俊の愛と友情を横糸に、建物をめぐる紛争を縦糸に、この物語は、まっすぐに生きる高校生たちの群像をさわやかに描いてゆく―。

(アマゾン商品紹介より)

 

初鑑賞です。

 

全体の感想としては。

何を描きたいのか焦点がぼやけている印象です。

一番伝わってきたのが時代の空気感です。

1963年の横浜が舞台という事で、実は僕の母親がドンピシャこの物語の主人公海と同級生ぐらいの年代で、しかも横浜山手育ちというのも同じで、母の話から聞いた話とリンクすることも多く非常に感慨深いものはありました。

山下公園氷川丸、ニューグランドホテルは今もある、わが家から5分とかからない散歩コースでおなじみの光景。コクリコ坂のモデルであろう坂も見当がつくし。学生運動が盛んだった話も母からよく聞いたし、「歌声喫茶でよく歌を歌ったわ~」とか言われても、歌声喫茶?なんじゃそりゃぁ?と想像すらできなかったけど、「ああ、こういう事ね」と納得しました。

母方兄弟の複雑な事情なども、この物語と重なる部分もあり、あの時代のリアリティーを感じることはできました。

ただそんな時代の空気感の表現に力を注いでしまった分

青春ストーリーと恋愛ストーリーの部分が弱く、あまりにも平凡でさらりとしすぎているというのが、いまいちな要因なのかもしれません。

例えば同じような青春ストーリーでも「耳をすませば」や「魔女の宅急便」のほうがなんか「躍動感」があるし、キラキラしてるし、ワクワクするんですよね~。

大人が観ても。子どもが観たらその差はもっと大きいんじゃないかな~。

お約束の自転車二人乗りシーンはあるんですけどね

 

宮崎吾郎監督は僕と同世代(か少し上)で、彼にとっても

父親世代へのオマージュという意味合いがあったのではないでしょうか。

結局これは青春ものではなく、親子の話なのかな・・。

 

この作品で、お父さん(宮崎駿氏)とはバチバチやったらしいですけど、それもなんとなくわかります。

 

駿氏 「オメー、俺へのオマージュなんかどうでもいいから子供にわかる話つくれよー」

吾郎氏「オヤジだって初期のころ、暗いのさんざん作ってたじゃないか。おらぁあのころの方が好きだったけどねぇ」

て僕の勝手な妄想ですよ。妄想ですよぉ~。

 

おもひでぽろぽろ

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公開 1991年

監督 高畑勲

 

 

東京生まれ東京育ちの27歳OLのタエ子は10日間の休暇を取って、姉の夫の実家である山形の田舎に旅に出る。旅の途中で、彼女はふと小学5年生の自分を思い出してしまう。小学5年生、それは女の子が一つ階段を昇って成長するためのさなぎの季節なのかもしれない。いくつも思い出が浮かんでくるのは、自分に再びさなぎの季節が巡ってきたのだろうか。もう一度、自分を見つめ直す時なのかもしれないと、タエ子は思いをはせていく。

物語はそんなタエ子の小学5年生の思い出と、山形での農業体験と案内役の青年トシオとの交流を交差させながら進んでゆく。(アマゾン商品紹介より)

 

まずは旅立つタエ子がなぜか小学5年生のころを思い出し、その子供時代のエピソードが淡々と描かれていくのですが、時代背景はビートルズ来日のころ。

小学5年生というと僕よりはだいぶ上の世代の話でしょうか。でも、はんこう押す紙を首からぶら下げてラジオ体操に行ったり、相合傘描いてクラスの友達冷やかしたり、スカートめくりしたり・・僕らの時代もほとんど同じで

あったあった~、わかるわかる、なつかしい~と初めのうちは嬉々と観ていました。

しかし、小学生のタエ子がどうもわがままで・・

例によって、雲行きが怪しくなってきます。

前回観た「火垂るの墓」でも高畑さんの描く子供は、どうも驚くほどにわがままで大人をイラつかせます。観てる我々も、作中の大人たちも。

27歳のタエ子も小学生のころをしきりに思いだしてはあれこれとごちゃごちゃ考えている、ある意味、こじらせ女子で・・。

中盤になってもエピソードが延々と語られるだけで、いつまでたっても物語が動かないこともあわさってかなり退屈になってきます。

トシオとの恋の話も進展しなさそうで・・

逆に、この退屈さは何かの狙いか?と、考えさせられてきます。

そして・・

終盤になった頃、もしかしたら・・と一つのテーマが見えてきました。

なんとなく感じる、わがまま、こじらせに、対する高畑さんの温かい視線。

「わがまま、こじらせいいじゃないか。

多少人に迷惑かけようが、自分に素直に生きてもいいんじゃない」

と言っているのではないか‥と。

大人の目線で観れば、わがままで、思いやりもなく、自分勝手な子供

しかし自分の子供時代をよくよく思い出してみれば、同じようなものだったじゃないか・・。

子供はわがままなぐらいでいいんだよ・・と。

大人だって、わがままは、よく言えば自分に正直な生き方ともいえるし

節度を持ってれば、もっと自由にイキイキと好きなことやりなさいよ・・と。

あっ、かなり自信ないですよ、これ。ググって他の人のレビューを見てもこんなこと言ってる人一人もいないんで・・・。

間違ってたら高畑さんにも失礼な話ですから。

あくまで僕の勝手な解釈です。という事強調しておきます。

 

学芸会の演劇の練習シーンで

タエ子は「あっカラスがおうちへかえっていくわ~。一羽」

という台本のセリフに勝手にアドリブで「さよなら~」と付け足して

先生に怒られます。勝手なことをするなと。

そこでタエ子は素直に引き下がらず、ならばと

本番では「さよなら~」という代わりに手を振るという演技を付け加えます。

タエ子なりの反骨精神もあって。

しかしそれが逆に観客から評価されるというエピソードがあるのですが。

そのシーンがとても印象的でした。

 

ラストシーンも、えっ!それおめでたすぎじゃない?

今までのシュールな感じにそぐわないラストだけ急にハリウッド的ラブコメ感?と一瞬???でしたたけど

 

自分の感情に素直に生きてもいいんじゃないというテーマを

表していると思えば妙に納得がいくのでした。

火垂るの墓

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公開 1988年

原作 野坂昭如

監督 高畑勲

 

いや~力強いメッセージを感じました。

以前一度見たけどこんなにシュールな話だったとは全く忘れていましたよ。

感動とか、悲しいとか、泣くとかいう話じゃないです。

冒頭から餓死する結末を見せられ、空襲に逃げ惑い、家は焼かれ、母は死に・・・。

この母の描写もすごい。包帯ぐるぐる巻きでわずかに見えている唇はどす黒く、

結局、死んでウジが沸いて・・・。

やっぱり戦争ってこういうもんだったんだなあと、戦争の悲惨さをキリキリと痛感していたところ

幼い節子と兄清太は意外にものんきに元気に力強く生きている。

いや~立派だな~と思って観ていたのですが

小母の家に身を寄せてしばらくしたころ、おやおやと雲行きが怪しくなってきます。

学校も行かず、家の仕事も、地域の仕事も手伝おうとせず、ただ幼い節子に寄り添い、呑気に楽しそうに生きている清太に小母の小言も増えてきます。

この作品よく「この世界の片隅に」と比較されているようですが

この辺りまではある意味同じような展開で、

あちらのすずは嫁ぎ先の家と地域社会に溶け込む努力をして戦ったのに対し

こちらの清太はふてくされて小母の家を飛び出し妹と二人きりの世界に逃げ込んだのが、大きな分岐点でした。

荷物をリヤカーに積み込み、横穴壕でままごとのような二人の新しい生活を始めるが、やがて食糧も尽き…。節子はどんどん筋弱していき・・・。

このあたりで、近所のおじさんに「小母さんに謝って、あのうちにまた置いてもらいなさい」と助言をされるも、意固地にいう事を聞かず、畑の作物を盗んだり、空襲に乗じて空き巣に入り、食べ物や衣類を盗んだりと、転落街道まっしぐら。

そのまま状況改善できず兄妹ともども共倒れという結末。

 

この話は、戦争の悲惨さもそうですが、それよりも

現実から逃避してファンタジーに逃げ込んでしまった人間の

なれの果てを描いているのだと思います。

 

人は社会から孤立しては生きられない

助け合い、寄り添いあい、思いやりあう気持ちを忘れたら

生きてはいけない。

それは戦争時代でも平穏な現代でも変わらない

一度、世を捨ててしまったら、後でなかなか這い上がれない怖さを

痛切に描いています。

気持ちはわかるんですよ。

この作品の場合、戦争で両親を失って、家も無くし、清太だって大人とは言い切れない年ごろで幼い節子を抱えて・・

でも、だからこそ、人を頼る、人に寄り添う気持ちを失ったら

一人で、社会とのつながりを断って家族だけで生きていこうなんて思っちゃあ駄目なんだよ。

という強烈なメッセージを感じました。

そしてそれは

野坂さんというより高畑さん独特の解釈なのだと思います。

 

高畑さん。ご冥福をお祈りします。