村上海賊の娘 和田竜
前から気になってたのですが、今一つ読む気になれなかったんです。
戦国時代ものというのがちょっと引っかかってまして。
昔は好きだったんですよ、戦国時代。
最近は、陰鬱とした謀略や陰謀の話が多く、癖易してたんです。
最後は徳川家康が勝つというのも先が見えてますし。
他に読みたい本も無く、なんとなく気が向いたのでやっと手にしたという感じです。
読みはじめの第一印象、「なんだこれ!?」です。
とにかく読みにくい。テンポが悪い。
本文中にいちいち文献引用を差し込み、ちなみに話で脱線する。
文献引用するのはいいですが、そこは作家さんの中でうまく噛み砕いて
ストーリーに反映させてくれればいいのに。
文献引用は最後の「あとがき」か「解説」でまとめるのが普通です。
まあ、普通が嫌だったのか、斬新と言えば斬新ですが、読みにくいものは読みにくいです。
3ページ読んでは眠くなり、ぽろぽろと手から本を落とす始末。
何度も挫折しそうになりました。
しかし、なんとか踏ん張って読み進めると、
1巻中盤、主人公の村上海賊の娘、景が登場するや、俄然、面白くなり引き込まれ、
ついには朝になってるのも気づかず、一気に読み終えてしまったのでした。
ざっとストーリーを説明します。
若干ネタばれ含みます。気になる人は罫線内読まないように。
───織田信長が一向宗本願寺(大阪本願寺)を攻めていた時代。信長は本願寺の周囲を封鎖し兵糧攻めにかかった。残す兵糧輸送経路は大阪湾からの海上のみ。本願寺は毛利家を頼り海上からの兵糧入れを試みる。しかし、毛利家の船力では足りず、そこに力を貸すことになったのが四国瀬戸内海を拠点とする村上海賊。村上海賊にとって毛利家は旧敵であったが、海賊にとっては乱世が続くほうが都合がよく、信長に天下統一されることは阻みたい。この物語は、そんな村上海賊と毛利家海軍の連合軍と織田家側についた和歌山を拠点とする眞鍋海賊と泉州侍の連合軍の海戦、木津川の合戦がクライマックスとなる。
主人公は、村上海賊当主、村上武吉の娘、村上景。
木津川の合戦に勝ち、一向宗が籠城する木津砦への兵糧を届けた景は、
かつて海賊働きをしたときに、流れで助けた縁のある一向宗門徒の留吉に向かって言う
「それでもお前は、砦を出ないんだろう」
留吉はぴたりと泣きやんだ。
「そうなんだろう」
留吉は無言で景を見上げていたが、やがて、こくりとうなずいた。
「だと思ったよ」
景は微笑み、小さくうなずいた。いまだに本願寺のやり口は認められないものの、阿呆な意地を通して戦う男はごまんと見た。その顔はやけに明るかった。
「いろいろあったわ」
腰を伸ばし、宙を仰ぎ見た。
「いろいろあったが、留吉、お前に会うて気も晴れた。戦ってよかった。さればお前もオレらの運んだ米を食い、戦い続けよ」
そう言葉を継いだが、突如、腕を振り上げ、留吉の張り倒した。きょとんとする留吉に、にやりと笑い
「馬鹿野郎」
それだけ言うと、身をひるがえしてその場を後にした。
織田家と対峙し籠城する一向宗に米を届けたのは、別に一向宗を救うためではない。
米を届けたところで、織田家と戦い勝てるはずもない事は景も留吉も承知の上。
生きるか死ぬかより、どう生きるかが大事なんだ
そういうセリフはないけど、僕には景が去り際、留吉に対して、
背中でそう言ったように思えました。
そんな景のキャラクターが魅力的でした。
その他もみなカラッとした、痛快な登場人物たちでイイんです。
陰鬱さがなく、粋で豪快で潔い人たちの姿が描かれていて
昔、好きだった戦国時代の話の雰囲気があるんです。
こういう話、本当に久しぶりです。
この本は海賊たちの話ですが・・・。
しかしそんなキャラクターたちは漫画的でファンタジックという人も少なくないようです。
そこであのウザかった、文献引用が効いてくるんです。
とある書評に「文献引用しストーリーは史実に忠実に描いているのに、出てくるキャラクターだけがフワフワしたアニメのキャラのようなのが解せないと」いうのがありましたが
それは違うと思います。
文献引用はこのキャラクターたちにこそリアルがあると主張するためのものではないでしょうか。
和田氏とて、あれだけの文献引用をすればテンポが悪くなる。読みにくい。というのは百も承知のうえで。まして書くほうは、それはとてつもない労力を要したであろうし。それでもあえてそうしたのは、ただ史実に即したストーリーを書くためではないと思います。
この話のキャラクターたちを、ファンタジックで綺麗事すぎると批判する声に対して、
いやそうではない、こいつらこそ本当にあの時代を生きたリアルな人物像なんだと、
真っ向、戦いを挑むための「本文中の文献引用」ではないかと思いました。
冒頭批判した「ちなみに話」の中にこんな一文があります。
この時代、人の命というものが、今とは比べものにならないほどに軽かった
別に戦乱の時代だからというわけではないのでしょう。
病院も無く、救急車も無く、健康診断も無いわけですから。
医療行為といえば葉っぱ煎じて飲むかせいぜいが針と灸。
人間50年といわれ。50歳生きれば寿命をまっとうしたといっていい時代。
人の命など、戦が無くても、明日はどうなるか分からないのがあたりまえの世の中です。
殺すことも、殺されることも、さしたる気にはしなかった。
だからこそ一人の命、人生よりも「お家」存続を重要視した
というのも理にかなっているのではないでしょうか。
そして末代まで伝わる「家名」を上げる事を重視し、
つまり今を生き延びる事より、直接的な生死より
どう生きるかという「粋に生きる」ほうが大事という考え方は、
なまじ青臭い理想主義でもなかったのだと思わせてくれました。
しかしまあ、文献をいくら深く読みこんでも、どんな偉い学者が研究しても
それは結局、どこまで行っても一つの解釈にすぎないのですが。
ならば僕は最近では劣勢とも思える、この和田氏の解釈を支持します。
最近は小説なら「怒り」や戦国時代ものなら「利休」など
陰鬱とした情念や人の業を描いた作品が人気なようです。
かつてもてはやされた、百姓から成り上がるサクセスストーリーとして秀吉の物語や、
互いに認め合い敵に塩を送りながら戦う川中島の信玄と謙信のような
痛快な戦国時代、戦国武将のイメージはどこか嘘臭く扱われるようになった気がします。
僕の中でもそうで、なんとなく戦国時代が色あせていたんです。
本書は、そんな僕の戦国時代のイメージを、
再びキラキラと輝かせてくれた作品でした。