ジブリ「千と千尋の神隠し」感想~心の感受性を問われる~
公開 2001年
監督 宮崎駿
公開当時劇場で1度観たきり、2度目の鑑賞です。
カオナシ、カマジイ、ユバアバ、ハク。
個性的なキャラクターがたくさん出てきてそれなりに楽しめたのは覚えていたのですが
どんなストーリーでどんなテーマだったか、全然覚えてませんでした。
ていうか、元々よくわからない話だったような・・。
今回は、「そこんとこじっくり解明してやるぞ」という意気込みで観ました。
結果から言いますと・・・
惨敗。
今回もやっぱりよく意味わかんない作品でした。
あらすじおさらい・・
千尋は現代に生きる普通の女の子。両親とともに車で引っ越し先の家へと向かう途中で「不思議の町」に迷い込んだ。店のカウンターにあった料理を勝手に食べた両親は、豚に姿を変えられてしまう。ひとりぼっちになってしまった千尋は、名を奪われ「千」と呼ばれるようになり、その町を支配する魔女・湯婆婆の下で働き始める。千尋は湯屋「油屋」の下働きとして働きながら、様々な出来事に遭遇しつつも、謎の少年ハクや先輩のリン、釜爺らの助けを借りて、厳しい難局に立ち向かっていく。はたして千尋は元の世界に帰れるのか・・・・?(アマゾン商品紹介より)
まあ、ざっくり、今風に言えば「異世界スーパー銭湯」で働くことになった少女の成長物語ではあるんですけどね・・
カオナシの存在で駿さんは何を表現しようとしているのか?
ユバアバが溺愛する息子?「坊」の存在は何を表現しているのか?
ユバアバと双子の姉妹ゼニイバとは何を争い、そのはざまでハクは何をしようとしているのか?
ここがよくわからない・・・。
この謎が解ければこの作品の核心に迫れる気がするんだけど・・・
誰か解説できる人いません?
これは僕の勝手な、自信も根拠もない仮説ですが・・。
少女の成長物語の成長とは何か・・
一言でいえば、「自分で決断し責任を持つこと」です。
千尋は初めカマジイに仕事をさせてほしいとお願いして断られます。
途方に暮れて、体育座りでいじけてしまうのですが
黒い石炭を運んでいるススムシ?たちの姿をまねて石炭を窯に放り込んだシーン。
人に命じられるのではなく、自分で判断して行動すること
それが仕事だ!と。それが人生だ!と駿さんは言っているのかな・・。
ユバアバは千尋にそんな仕事をさせるように仕向ける一方、自分の息子「坊」は部屋の中に閉じ込めて何もさせず、溺愛しています。
カオナシもあるところから、千尋に執着するようになり、追いかけまわし、ついには金で気を引こうとします。
なんだろうこれ・・愛と執着の違いを描いているのかな・・・
千尋はお金は「いらない。あなたには私の本当に大事なものは分からないわ」
とキッパリ言い放ちます。
大人と子供って・・・成長って何だろう・・・
なんて考えさせられます。(カオナシも大人の一種として考えると)
普通、素直に考えれば子供が成長して大人になるのですが・・・。
子供の方が大人よりも勝っている部分も多々あります。
大人になって退化すること。
その一つが「感受性」ではないでしょうか
空を見て、花を見て美しいと思う心。
虫の奇妙な動きにわくわくする気持ち。
お父さんやお母さん、ハクを心配し慈しむ気持ち。
千尋の「本当に大事なもの」とは何か?
そういうお金では買えない心の感受性・・かな・・
だとするとこれは少女の成長物語でありながら・・
実は大人たちに童心を忘れるなと言っているのではないだろうか・・・
なんて・・。
それにしてもゼニイバのシーンの意味が全然わかりません。
そもそも意味が分かんないとか言ってることがもうダメなんだ‥と。
感じればいいんだ!心で!
千はハクの所業を謝るために電車に乗ってゼニイバに会いに行った。
「愛だよ愛」byカマジイ。
それでいいんだ。うん。